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- 2021年03月10日
- 東日本大震災から10年/取材記者の特別寄稿
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弊社所属のМ記者(現日本テレビ報道局勤務)の記憶です。
その日の午後、私は千葉県柏市の喫茶店で、取材相手といました。すると、突然大きな揺れが発生し、私たちは店の外に飛び出しました。その後、揺れが収まったので、一旦店に戻りましたが、また大きな揺れが発生。再び店の外へ飛び出しました。外では多くの人が不安な表情で建物から出てきていました。取材を中止し、自宅のある千葉に向かう途中、携帯が鳴りました。「これは阪神を超える地震だと思う」大阪で知り合ったカメラマンでした。自分が経験した阪神・淡路大震災を上回る被害が出るであろうということでした。家路を急ぎましたが、駅は混雑しており、移動手段も限られていました。仕方がなく、近くの健康ランドで1泊しようと決めたところ、再び携帯が鳴りました。「車で東北に行って」
社長からの電話でした。
私は同僚と2人で車に乗り込み東北に向かいました。自分たちの車以外、全く車が走っていない高速をひたすら北へと向かいました。夜明け頃だったでしょうか、被災地に着きました。目の前に広がる光景は想像を絶するものでした。ここから私の被災地取材が始まりました。
最も記憶に残っているのは、地元スーパーでの“窃盗”の取材です。この取材を通して、被災地報道の難しさを痛感しました。
外国の報道では、「日本では震災に乗じた窃盗は起きていない。
日本は礼儀正しい国だ」と日本を称賛するものが多く見られました。しかし、実際には“窃盗”は起きていました。私たちがその実態を取材しようと大型スーパーに行くと、人目をはばかることなく多くの人が店舗に入り、無断で商品を持ち出していました。私たちは商品を持ち出していた女性を直撃しました。女性はカメラを向けられ、商品を手に持ったまま固まりました。
「商品を持ち出しても良いと思いますか?」
私たちの言葉に女性は苦しそうな表情をしながら、しばらく沈黙していました。
そして、女性は、絞り出すような声で「わかりました」と言い、商品を手から離しました。商品はドサッと音をたて、落ちました。女性はそのまま半ば放心したような状態でその場を立ち去っていきました。その場に残されていた商品は、石けんや洗面器だったような気がします。商品が地面に落ちる様子は私の脳裏に焼き付いています。
そして、その様子は後日放送されました。
女性の表情、残された石けんと洗面器。当時の光景を思い出すと、胸が締め付けられます。あの光景は私に重要なことを訴えかけていましたが、私は気づくことができませんでした。女性が立ち去ったとき、私はただ茫然とその様子を見ているだけでした。女性に話しかけることはしませんでした。女性の行為の背景にあるものを理解しようとしなかったのです。私は、取材を通して、女性をあの行為へと追い詰めた背景を理解しようと努めるべきでした。支払いをせず、商品を持ち出すことはもちろん許されることではありません。しかし、さらに取材をし、女性の窮状を理解し、その理解したものをも含めた放送をしていたら、より事実を反映した報道ができていたのではないかと悔やまれます。
取材する対象には様々な面があります。それぞれとても大切で、できるだけ多くの面を報道すればするほど、事実に近い報道になるのではないかと思います。しかし、現実には、取材時間だったり、放送時間だったり制約があります。それでも諦めずそのような取材を心掛けることが大切だと思えてなりません。
(完)